おヒマな中年二輪愛好会レポート

2010.03.20 春の戦跡バスツアー

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「瀬戸地下軍需工場跡を保存する会」
年に一回開催する「春の戦跡見学会」
今年こそは参加してみようと待ち構えていた

でもオイラは人見知りが激しいので同行者を募るべく
掲示板で釣り糸を垂れてみた
EDさん・アラセさん・みちさんが釣れた
これで寂しい思いをしなくて済む

今回の見学会の目的は
「瀬戸地下工場のルーツを探る」である

瀬戸地下軍需工場の「愛知航空機株式会社」は
明治26年に設立された「愛知時計製造合資会社」が元であり
昭和15年に全工場が海軍の管理工場となり
昭和18年「愛知航空機株式会社」となる
昭和20年の戦争末期、船方工場がB29の爆撃により
10分ほどで壊滅、死者1,145名、負傷者約3,000名の被害

愛知航空機の主要生産機は
   九九式艦上爆撃機 昭和14年
   艦上爆撃機「彗星」 昭和18年
   艦上攻撃機「流星」 昭和20年
   零式水上偵察機  昭和15年
   水上偵察機「瑞雲」 昭和18年
   特殊攻撃機「晴嵐」 昭和18年 
   夜間戦闘機「電光」 昭和19年
 試作段階

今回は、その船方工場(現「愛知時計電機)と
永徳工場(現「愛知機械工業)にて
動員学徒の方や、工場で働いていた方の体験談を聞く企画である

爆撃による被害の爪後の残る「寺院」や「灯台」も
"おまけ"として見学させていただいた

 @梅萼院(空襲で吹き飛んだ門柱)
 A船方工場慰霊碑(現「愛知時計電機」)
 Bお昼ごはん場所(名古屋港ガーデンふ頭つどいの広場)
 C名古屋港被爆灯台(被爆してエグレまくった灯台)
 D永徳工場スリップ跡(現「愛知機械工業」)

見学会はマイクロバスで名古屋市内を巡回する
am9:00に、みちさんを乗せて瀬戸を出発し
アラセさん・EDさん・オイラの3人は金山でam10:00に乗りこむ

ほぼ定刻通り「春の戦跡バスツアー」のマイクロバスが到着
この"バス目印"は、とうとう最後まで右に-15度傾いたままだった

参加者は20名ほどだろうか
道中主催者から「名古屋空襲」について概要の説明を受ける

年齢を重ねると今朝食べた物が思い出せなくなるのに
60数年前の出来ごとはスラスラと話せるのは何故だろう?

最初のおまけ企画「梅萼院」にて説明を受ける
名古屋空襲では工場群以外にも、住宅密集地も標的になり
延べ63回14.520tの爆弾が投下されて
死者は7,858名、負傷者は10,378名とのこと

完成された姿が想像できないのだが"吹き飛んだ門柱"


熱田区千年にある「愛知時計電機」へ移動
EDさんの赤いジャケットは、どこにいても目立つ

←現在の「愛知時計電機」あたりの地図

名古屋空襲の中でも一番悲惨だったのが
昭和20年6月9日に被爆したこの工場である

なぜか空襲警報が解除され
防空壕から工場の持ち場に戻りつつあった学徒や工員は惨劇に遭う

現場で"動員学徒"だった方から生々しい話しを聞くにつれ
「戦争が実際にあった」ことを今更実感する

←昭和12年ころの「愛知航空機」
 上の地図で熱田高校までが同工場であったことがわかる

工場の東側(堀川沿い)に回り込む
被爆した堤防を一部保存しているところで説明を受ける
「垂直に近い角度でこの痕跡はありえない」と言われ
じゃあ何の痕跡なのか教示いただきたかったが
そこまでは考えていなかったようだ

今日はアラセさんが"若者"としてオイラの目に写った

途中コンビニに寄り各自食物を購入し
お昼ごはん場所のガーデンふ頭に到着する

できたら日差しを避けたい
それほど暖かかった

ヒマ中の企画において
「お昼ごはん」を公開しなければならなくなったのはいつからだろう
←EDさん・・・この後、みちさんからバナナとアンパンもプレゼントされる

オイラ↓・・・「テリヤキハンバーガー」110円はお奨めだ


二つ目のおまけ企画"名古屋港被爆灯台"

ここで保存されているこの灯台は昭和14年に建てられた

説明板によれば、ここより175m北にあったこの灯台は
10号地ふ頭の再開発のために移転したとある

近くに寄ると空襲の痕跡が痛々しく
てっぺんは避雷針と鉄柵のみが残っている

塔の部分はご覧の通り、大きくエグられており
台の部分は10か所ほど弾き飛ばされた跡が残る

本日一番見ごたえのあった遺跡だ


他の参加者にご協力いただき集合写真

次は「永徳工場」にある"スリップ"である(去年は河和スリップを検証)
水上機の上げ降ろしのための滑走路だ

近代土木遺産ではあるのだが、護岸のために取り壊し中だった

現在のグーグル地図でもその形がはっきりとわかる

下は昭和21年ころの航空写真であるが
愛知航空機で生産された水上機が
工場から着水する様子が目に見えるようである

ちなみに現在は「永徳」という地名は消滅している

本日いただいた保存会の資料にある当時の「永徳工場」配置図
現在の公園・サッカー場・市営団地まで全部工場だったことがわかる

でも工事中で近くへ寄れないため、遠望で楽しむ
アラセさんが若く見えるし
みちさんがお子ちゃまに見える・・・そんな一枚

この後、永徳工場(愛知機械工業)東側へ回り
当時部品検査課に従事されていた方から話をうかがう

この工場も船方工場爆撃から一ヶ月半後に空襲を受ける
(その直前に一時的に船方工場へ応援に出て難を逃れたそうな)

愛知機械工業は昭和36年に営業赤字を計上し
日産自動車と技術提携(以後業務提携に入る)に至り
以後は「日産の工場」として存続するのだが
愛知機械工業ブランドで発売したコニーの制作に対する
自負の話しがとても興味深く聞けた

←アラセさんは
  我々から目を離さない警備員さんが気になるようである

3年8ヶ月続いた太平洋戦争の終戦から65年が経とうとしていて
当時を知る人々は間違いなく減少している

今回は戦争を"学徒""労働者"として経験された方の
話しを聞くことが出来て、そんなに昔ではない戦争を実感した

太平洋戦争を語る時
「侵略の歴史を前提にしろ」とか「自虐史観で語るな」などあるが
戦争は「善い悪い」の単純な二元論で済まされる代物ではない
しかし、「人はどう生きたか」を確認することから
問題の本質を見出すことが出来るような気がする

今回の企画で、そんな一面に触れることが出来て良かった

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