
10/24(土)のジムニーで散歩
尾張国統一のための合戦場を見に出かける
ココロカフェ
まずは朝ごはん
モーニングだが、けっこうおなかふくれる

レポートはここ▼
浮野古戦場 浮剕首塚

場所はここ▼
まだ尾張半国の領主だった信長は、いよいよ尾張統一に王手を掛けた
当時の尾張国の実質上の中心であった「清洲城」の信長は
名目上の中心地である「岩倉城」の信安に対し、適当な理由を付けて軍勢を向ける
それまでの相次ぐ木曽川の氾濫のため、岩倉周辺の地盤は悪く
南や西からの攻撃を不利と見た清洲信長は、浮野(現一宮市)に陣を置く
岩倉勢3,000に対し、清洲勢は2,000だった

この碑には
「永祿元年五月二十八日、二千余騎をひきいた織田信長は、
岩倉城主織田伊勢守信安を攻撃のため浮野へ陣を進めた
この日は小競り合いの瀬踏み程度に終わったが、
つづいて七月十二日犬山城主織田十郎左衛門が千騎ばかりを従えて馳せ加わったので
総勢三千余騎が浮野を中心に争い、死闘二刻に及び首級九百余を討ち取った
これを“浮野合戦”と呼び、この首級を埋めた地(通称「浮緋首塚」)に建碑した
昭和三十九年春 一宮市長 伊藤一」

しばらくは小競り合いで終始するが
信長に操られた「犬山城」の信清が1,000を従えて応援に駆けつけ
結果、この“浮野の戦い”は清洲・犬山同盟軍の勝利となる
1558年7月、この時信長26才

翌年には、弱体化した「岩倉城」を難なく落とし
これでようやく尾張国の統一が成る
その後、“浮野の戦い”で世話になった「犬山城」の信清が
「報酬が少ないじゃん!」とうるさいので追放してしまうのも、信長らしさである


今川を討ち取った「桶狭間の戦い」は、浮野合戦の2年後

